強烈に嫌いなこと

自分がスタコラサッサdashと逃げてしまう強烈に嫌なこと-利用されること-

親から利用されて生きてきたので、PTSDみたいなもんです。
誰かのエゴに振り回されるのが大嫌い。
そういう人を見るのも、一緒にいるのも嫌。

利用しようとする人は、その人の内界が寂しい。
そしてその寂しさは、他人によってどうにかされるものではなく、自分でなんとか
するものだ。

人は孤独である。
孤独を背負わない限り、寂しさを手の中で包み込むことはできない。
でも、利用する人は孤独さえみない。

嫌なことから目を背け、自分だけを特別視し、人を利用して生きようとする者に
どうして尊重などできようか。
私はそこまで人間できていません。

ということで、利用だけはゴメン被りたい。
意地でも逃げ切るさ。

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白馬に乗った王子様

いつか白馬に乗った王子様が迎えに来て、不遇な私を幸せにしてくれるheart01

そう思っている女性もいるでしょう。
小さいときに読んだ童話で、主人公は終盤、王子様によって救われ、幸せになります。
童話は作り話と分かっていても、ロマンチックに憧れる気持ち、わからなくもありません。

ところで、ロマンチックに憧れる人ほど依存傾向があるという記事を見つけました。

婚活でいつまでも成婚に至らない理由の一つに高望みがあります。
高望みする心理は、この記事で指摘されている”恋人に対する依存志向が強い”
ことが原因です。

自分をよく見てから物を言いなさいといわれるのは、身の程知らずな要求を
結婚相手に求めているからです。
第三者から見れば高望みな要求も、本人からすると当然 という乖離を生む背景
にこの記事が深く関わっているように思います。

人に幸せにしてもらいたい人は、概して高い地位にありません。というのも、全て
天から降ってくるという思想で行動しているために、努力が伴わないのです。
努力がなければ、結果はナシ。当然社会的な地位は上がりません。
社会的地位が低いと、ないものねだり欲が加速します。
その結果、結婚という機会を人生の一発逆転ホームランと捉え、目の色変えて
高望み相手を探すのです。

自分をよく知る人間は、自分の器に相応しい暮らしと相手を手に入れます。
もっとよい生活をしたいなら、器を広げる努力をします。
身の丈にあった暮らしをするので、周りにとやかくいわれることはありません。

自分で自分の不幸を呼び込んでおきながら、他人に幸せにして欲しいという依存は
外から見ていると、ただのむさぼり人にしか見えない。
卑しい人間とみなされます。
今、自分が白馬の王子を求めているならば、その思想こそが問題です。

どうして自力で姫になろうとしないのでしょう?
王女になろうとしないのでしょう?
姫に、王女になる努力をしたくないと思うのなら、王子を求めるのは間違いです。
王子と出会って姫になるのではない。
姫になったから王子と出会えるのである。

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カウンセリングの停滞

カウンセリングで心の治療をするのに年単位で時間がかかることがあります。
患者さんは、毎回多額の出費をしながらカウンセリングを受けるので、効果を求め
ます。

カウンセリング初期は、傾聴によっていままで意識しなかった自分に出会え、患者
さんは満足します。
ところが、ある程度自分を出し切ると、カウンセリングの間に発見や出会いがなくなり
退屈してきます。
そういうときでさえも、同じく費用はかかる。
金銭の痛みはあるのに、効果がない・・・とすれば、カウンセリングを受けることに
意味を見いだせなくなる。
カウンセリングを止めたくなるのは、当然です。

心のケアは、ある意味辛抱比べ。
カウンセラーは患者さんの心が動くまで、あの手この手で援助していく。
ただし、援助者は脇役であって、主役はあくまで患者さん。
下手な手出しはできません。
カウンセラーは回答を言いたい気持ちをぐっとこらえて患者さんが回答にたどり着く
のを待つ。
患者さんが根を上げるか、患者さんの心が動くかはやってみないと分からない部分
もある。

ただカウンセラーは、いま差し出している手は十分なのか、他に手はないのか
考えているのだろうか?
高名な先生でさえ、手のバリエーションはそうたいしてなかった。
何度も同じことを言われて、内心「心では共感できない」と思うところもあった。

停滞感を覚えるなら、一旦カウンセリングを離れてみるのがよい。
患者側が想像力不足で、カウンセラーの言っていることが理解できていないのかも
しれないし、カウンセラーの手の入れ方が患者さんの性質にあっていないのかも
しれない。
究極、自分しか自分の心を把握できないのだから、自分でカウンセリングした方が
効率的とも言える。
心の病気とブログ で書いたようにブログに書き出すことで自分で自分を分析する
ことも可能だ。

カウンセラーもピンキリ。
傾聴といっても、全く黙って聴く人もいれば、患者さんに気づきをもたらす聴き方を
する人もいる。
「体験型」より「経験型」のカウンセラーを選びましょうとは言えるが、それ以上は
カウンセラーの善し悪しの判断基準を持ち合わせていない。

私は、自分で治すことが一番だと思っている。
退屈になってきたなら、それだけ自分が自分を理解してきた証。
治療方法をシフトする時期に来たのだと思いますよ。

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その人の価値は何で決まる?

人間の価値って何で決まるのでしょう?
年収?地位?人脈?知識?
いろんな考え方があると思います。

三途の川を渡るとき、私たちは何も持って行くことが出来ません。
生きていたときに手にしたモノは全て川の手前に置いてこなくてはいけない。
地獄の閻魔様の前で、天国へ昇る人か地獄へ堕ちる人か判断されるとき
何を基準にされるのでしょう?

もう何も持たない私たちは、閻魔様に「私は生前これくらい優れた功績を残した
のです。だから天国へ送ってください。」と訴えても、「証拠もなく戯れ言を言うな」
と言われればどうしようもない。
でも下界から、「この人をどうぞ天国へ送ってください。私は○○さんに助けてもらった
のです。」という声が届けば、閻魔様も考えるかも知れません。

下界の人間は、誰かに強制されて亡き人が天国に行くことをお祈りしているわけ
じゃない。本当に生前にお世話になっているから、助けてもらっているから、相手の
冥福を祈るのです。
それが人間としての最期の徳です。
本気で祈られる人か、表面だけポーズされる人か。

もう、お分かりですね。
最初に挙げた年収や地位は、人間の価値とはなにも関係ありません。
人間としての価値は他者をどれだけ救ったか、幸せにしたかで決まるのです。
これだけを聞くと、自己犠牲を払った不幸せな人に徳があると勘違いする人も
いるでしょう。
しかし、他者に差し出すために、自らを犠牲にしろとは言っていません。
むしろ一番最初に自分が幸せになってください。

自分が幸せな人は、余裕があります・力が余っています。
そこまで自分を幸せにしてこそ、他者をも幸せに出来るのです。
自分を幸せにするって、カネもないのに?恋人もいないのに?と思う人もいる
かもしれない。

相田みつをさんの詩に、「しあわせはいつも自分の心がきめる」というのがあります。
カネや恋人は、本当にあなたを幸せにする絶対条件ですか?
私は違うと思います。
カネがあるという事実が、あなたの頭の中に選択の自由さをもたらすことが幸せ
なんです。恋人という存在が、弱った自分を励ましてくれるから、支えてくれるから
幸せなんです。
カネや恋人があれば・・・というファンタジーがあなたを幸せの世界へ導いてくれる。
そのファンタジーは、実体としてのカネや恋人とは別次元のものです。

カネや恋人のような外部環境は、不可抗力によってバランスが崩れたら、あっと
いう間に手からすり抜ける。そんな不確定なものに、自分の人生を委ねて大丈夫
ですか?
あなたから絶対に、どんなときも離れないのは、”内部環境”なのです。
内部にファンタジーを構築できれば、いつだって幸せでいられます。

では、どうやって内部にファンタジーを作るのか?
まぁ、ここで今まで作ってきた考え方が問われるわけです。

世間の基準に合わせた物の考え方をしてきた人間は、”これは不幸、これは幸福”
の基準がキッチリカッキリ決まっています。
ということは、ある状態は絶対的不幸なのです。
そういう頑固な頭では、内部にファンタジーは作れません。

事象は良い面と悪い面がある。
その良い面を探し出して、そちらを見ることに注力する。
そうすれば、いつでも希望を持てる。
これが内部にファンタジーを作る方法です。
すでにこのファンタジーをお持ちの方は、徳のある人です。
でも、このブログを読んでいる時点で、おそらくそういう人ではないのです。

事象の良い面と悪い面に気付くためには、どんな可能性があるのか多面的に
思考してみることが必要です。
切るカードは、多くの選択肢の中から選んだ方が有利なのです。
そのために今の自分の頭を疑ってみることです。
疑って、もっとあるんじゃないかと探し回るのです。

思考は、いつだって自分をファンタジーへいざなってくれる。
ファンタジーによって自分が幸せと感じるから、他者にも幸せを分けることができる。
生きている間に多くの人を幸せにすれば、閻魔様に天国への切符をもらえる。

死んだ後にその人の価値が決まります。
あなたがもし、価値ある人生を歩みたいなら、最初にすることは思考してみることです。
これは、貧富、身分に関係なく誰にでもできる。
そういう意味で、人間は平等です。

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和牛専門店ミートショップ・ヒロさん

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ゼクシィについていけない・・・

ちょっと用事があって購入したゼクシィを見てます。
花嫁ヘアー見本帖というのに、一般の人がさまざまなヘアスタイル&ドレス
に身を包んだ写真が掲載されているのですが、

なんか

キラキラ感shineについていけない。

えっと、そんなに着飾っている自分大好きですか?
花嫁というと夢があるんっすか?

モデルさんなら分かる。でも一般人。
美女ばっかでもない。
なかには結構ドハデなヘッドアクセもあって、内心「ナイナイ」と思った私。

私は回避性人格のACというくせ者だから、こういうキラキラワールドに拒否感出るん
かも。
ふつーの人は、もっと自分好きなのかな。

すごいイジワルに結婚式を見ちゃうと、お世話になった人に御礼をしたいといい
ながら、心は自分たちが如何にキレイに見えるか、印象良く残るかしか気にしてない。
人に御礼するって、モノじゃないしカネでもない。
相手がしてくれたことに御礼を言うことでもない。
相手が心込めてくれた過去に、その過去の相手の心配りに感謝するってこと。

結婚式は派手に執り行っても、御礼の意味も分からない、人の気持ちも分からない
二人は、いずれすれ違いを起こして険悪になる。
結婚式の日に使った300万円、一体なんになりました?
勉強代としては高すぎると思う。

人の記憶に残るものは、感情を揺すぶられた経験だけ。
感情が揺れるのは、お金を掛けてするものじゃない。
形骸的な結婚式より、結婚前の親への挨拶、お世話になった人への御礼。
そっちの方が重要でしょう?

人の心を揺すぶれない人は、質素に結婚すればいいんじゃないですか?
周りにお金を出してもらって、足を運んでもらって、立派な思い出作っても
あんまし意味ないと思うけどな。

若かりし二人の記念として、ドレスアップした写真を残すだけで十分でしょう。

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愚痴のはけ口にされる人

いつも人の愚痴の聞き役。私は愚痴なんて言わないのに・・・。
そう思っている人いませんか?

相手は体のいいことをいう
「あなたには何でも話しやすい」
「口が固いし、信用している」
「相談できるのはあんただけ」

そういわれて喜んでいる自分いませんか?
もし喜んでいるとすれば、あなたも恩恵を預かっているのです。
”私は必要とされている”って。

自立して、自分を持っている人は、こんなことを言われたら心にイエロー信号が
灯るのです。”コイツ、オレを取り込もうとしている。ヤベっ。逃げよ。”

相手はわざと口に出していませんが、心の奥底であなたを奴隷扱いしている。
だからあなたが相談に乗って欲しいと持ちかけても、無視されるでしょう。
奴隷から君主へ物を言うことなど、許されていないからです。

いいように奴隷扱いされて、それでも善しと認めている自分って何なのですか?
そんなに自分は価値のない人間ですか。
実は、そこ(価値のない人間と思っていること)が問題なのです。
人は自分のために生きているのが真理です。
ところが自己否定が過ぎると、他人のために生きないと自分が生きていることが
申し訳ないと思ってしまう。
他人の世話あっての自分という構図を頭に描いていれば、奴隷にだってなれちゃう
わけです。

しかし、真理に背いて生き続けることはできない。
ですから、愚痴を聞いているだけの人生をストレスに感じ、疑問に思うのです。

愚痴を言う人というのは、自分で自分の尻を拭けないガキです。
本来負の感情こそ、自分の中で対話を進めながら処理、消化していくものなのです。
それをできる程対話する力がないから、他人であるあなたを利用している。
なんでガキの感情処理にあなたはつきあっているのでしょう。
そんなお人好し、意味ありますか?

唯一愚痴を聞くことを是としているのは、カウンセリングという場です。
そこでは自分の負の感情を思いの丈吐き出してもいい。
ただし1時間1万円です。
愚痴を聞くだけでぐったりするでしょう?
それは聞くことが疲弊につながるからなんです。だから有料。
あなたは他人のためにタダで働いているんですよ。それはアリですか?

相手に「もう愚痴は聞きません」といいましょう。
私はそもそも愚痴をいうほどの精神性を持つ人をおつきあいの対象にしたく
ありません。
大人同士の付き合いですから、そーいった負の感情は別の所で処理してください
と思う。
愚痴くらいしか話すネタがないということは、所詮そこまでの人間関係です。
心おきなく終了してOK。
人付き合いは楽しくね。

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誘われない事実が物語ること

30~40代になると個々の生活があるため、学生の時のように人に会うことが容易で
なくなります。
男性は頻繁に連絡しなくても友達は友達、変わらないという割り切りが上手いので、
深刻に悩むことはありません。
女性はそれなりのタームで連絡したり会ったりしないと、友達感覚が薄れ、孤独に悩む
ことになります。

女性は、-私を必要としてくれる夫以外の人が欲しい-
と友達熱を持つことも珍しくありません。
最初は接点のある人で、気の合いそうな人に声を掛けます。
一緒に出かけよう!ご飯を食べよう!
何度となく誘います。相手も誘ってきた人を嫌いでなければOKを出すでしょう。
みんなで新しい体験できてよかったね!て終わればめでたしめでたしなのですが、
誘ってばかりだとそのうち欲が出てきます。私も誘われたい・・・と。

ところが待てどくらせど、誘いはこない。
人を変えても、場所を変えても、こない。なんで?

ではちょっと相手の気持ちを考えてみましょう。
--
あなたにたいして乗り気でもない誘いがやってきました。
断る理由もないのでその誘いにのりました。
可もなく不可もないといった感想でしたが、社交辞令として、「楽しかったです。
ありがとう。」と返事をしました。
そういうことが2-3回続いた後、相手から「今度はそっちが誘ってください」と言われ
ました。
そこまで頑張るほど会って楽しいわけでもないので、その人と連絡するのを止め
ました。
--
十分に考えられる状態ではありませんでしたか?

要するにあればあったで、いいかと思うけど、なくて困るものでもない。
それがあなたの誘いなのです。
自分が”欲しい”と思わないものに、わざわざ労力を割く人はいない。
単純にこれだけなんです。

それに仕事や家族など、なくて困るものはいっぱいある。
そちらを優先するのは当然なのです。
10-20代は、優先するものに”ひとづきあい”があり、友達幻想にとりつかれています
から、何よりも誰かとつながっていることが大切にされます。
でも、30代以降は、そういった価値観とは違いますね。

もし、自分が誘われたいと思うのなら、どういう人が誘われているのかを観察すれば
いいんです。
相手を肯定する力、さりげない気配り、謙虚さ、聞き上手などたくさんのマネしたい
ポイントが見つかるハズです。

天からぼた餅は降ってきません。
誘われたいと思うなら、相手がどうしても誘いたいと思うような自分になりましょう。
そうすれば、あなたの悩みは解決しますよ。

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自分の回避性人格について深掘りしてみる

なにをするのも恐いと足のすくんでしまう自分を理解するために、自らの人格について
考えることにする。

私は何をするにしても、「どうせ失敗する」「自分には力がない」とすぐに悪い方向に
考えて、足がすくんでしまう。
また対人関係も傷つくことを恐れて深入りしない。
その割に人を求める傾向が強く、矛盾した心を抱えている。

こういう状態の人を回避性人格という。

人生で最初に記憶があるのは、幼稚園の時にブランコから飛び降りる遊びをしていた
ことだ。みんながブランコから飛び降りるのを見て羨ましく思い、やりたいと思ったにも
関わらず「自分は出来ないのではないか」「怪我するんじゃないか」という思いに囚われ
て、勢いよく飛ぶことが出来なかった。
いつも失敗前提で動いていたから、思い切りのよさは人100倍なかった。
いつもぐちぐち、ウジウジ系。←根暗である。

そんな私の人格を形作ったのは、両親が与えた環境だった。
第一子である私は両親の期待を一身に背負って、幼少の頃から英才教育を
受けていた。3歳で毎日ピアノを2時間練習するのである。
ピアノをやることは、強制であり、一日たりとも休むことは許されなかった。
そして幼稚園に入園するためのお受験。
とにかく頭の良い子、特技のある子としていることを要求された。

親は何事も出来て当然と考えていたので、日常で褒められること認められることは
皆無であり、彼らの価値感上人に自慢できるところがあるときだけ、褒められた。
友達をたくさん持つことを強迫的に求められ、「誰と仲が良いのか」「友達はいる
のか」何度も聞かれた。そして「近所の○○ちゃんと遊びなさい」と言われることも
あった。

これだけたたき上げられたので、小学校では頭の良い部類に入り、希望すれば
リーダになることもできた。
だが、私はいつも「自分なんかにそんな大役は務まらない」と萎縮し、みんなの
陰に隠れるように目立たない努力をした。
そして周りからの言葉を素直に取れない子になっていた。
一般に9-12歳はゴールデンエイジと言われ、何事を吸収するにも適した年齢なの
だそうな。担任の先生は、私たちの可能性について希望を持って説明してくれた。
その話を聞いた私は、「どうせ自分は大した人間にならないし、関係ない」と
切り捨てていた。
すでに私の中で回避性の人格は出来上がっていたのである。

”意に沿わない習い事、受験、親の望む子供像でいること”は、私の持つ本来の
生きる力を奪うには十分であった。
中学以降、私は自殺企図を繰り返すようになった。
今もやや気持ちとしては引きこもりがちである。外の世界が恐いのだ。

私はとにかく逃げるクセが人よりも強い。
場面の良い所を見つけるより、悪い所を見つけることに長けている。
その結果、全てを否定的に捉え、逃げたい欲求にとりつかれ、放り投げてしまう。
辛抱強く、前向きに ができない。

これを修正するには、自分で自分を”認証”することである。
物事には、良い面と悪い面の両方があり、良い面をクローズアップすることで
自分を潰すことを防ぐ。
潰しまくっているから、ぺっちゃんこで逃げることしか頭に浮かばないのである。
潰す手を止めて、そっと救ってやれば、そのうちふっくらとしてくる。
ふっくらしたら、余裕があるから可能性を探ることも出来る。
世の中がフラットに見えるようになる。

夫に”認証”を求めた。しかし回避性人格者にはお似合いのシゾイド人格者が私
の夫だったので、”認証”がなんだか理解できない。
ぶつかりあい、罵りあい、それでも双方が理解できない。
とても苦しい状態だ。

でも、死ぬわけにいかんしなぁ。
そっと救う方法っていつ身につくでしょ?
考えてみます。

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心の病気とブログ

精神疾患の人の全てが適切な治療、心のケアを受けているとは言い難い。
特にカウンセリングは自由診療なので、全額自己負担である。
料金が足枷となって、カウンセリングを受けることを先延ばしにし、症状が悪化する
こともある。

そんな人の治療に有効な手段としてブログを書くというのはどうだろうか?

私は既に1200以上の記事を書いている。
書きたいという理由もあるが、書かざるを得ないという理由もある。
自分の中の苦しいことを吐き出して、整理して、自分を見つめることで落ち着く。
見つめることで自分と対話する機会を得、自己内対話が得意になっていく。
そうすれば、ちょっと調子が悪いときでも自分で考える力、悩む力が身につく。

”料金を支払う経済力がない。カウンセリングは当たり外れがあるので、信じられない”
という人に有効な手段だと思う。
自分をカウンセラーにして、自分で治療するのであるから、腕は自分次第だ。

ブログは、解析機能がついており、一日何人訪れたのか、どんな記事が読まれたのか
を知ることが出来る。
自分の胸を内を出しただけなのに、それを読んでくれる第三者がいるという事実は
ブログを続けるモチベーションにもなる。
より共感性の高い記事を書くこと出来る人ならば、多くの読者を得ることも出来る
だろう。

私は長い時間をかけて、投薬、カウンセリングを受け、精神疾患を乗り越えて来た。
それらの経験を経て、病気を治すのは自分自身であることに気がついた。
結局長いことかけて、自分に一番有効だったのは、日記やブログで自分を綴る
ことだった。

ある日完治!というデジタル的な奇跡は起きない。
ゆっくりと連続的に変化することで徐々に治っていくのだ。
そのためには継続できることが一番。

もし、ただブログを書くだけだと自分の変化が薄いんじゃないかと感じるなら
有料でブログに添削や受容をされるサービスなんかを使うのも手ではないだろうか?
自分の考えていることの枠組みを教えてくれたり、認めてくれる人がいることで
自分を肯定できるようになる。

このサービスはメールカウンセリングとは違う。
あくまでも当事者が外に向けて自ら発信し、自分の言うことに責任を持つ。
そうすれば、少なからず第三者としての冷静さをもって挑むことが出来、また
自分と同じ悩みを持つ人の共感を得られるという意味で、仲間もできやすい。
さらにメールカウンセリングはサービスが終わった後、自分を見直す機会が
ないが、ブログは有料サービスが終わった後も継続して書くことが出来、納得いく
まで考え続けられる。

冷静さ、高額ではない料金(無料の場合も有り)、継続性、仲間の発見という意味で
また別の価値があると思う。

ブログを書いて回復する方法や有料のサービスを受けるなんてどーですかね?
皆さんの意見を聞きたいので、コメント欄を開けます。(コメントは承認制です)
賛否両論、別の方法もあるんじゃないか?既にそんなサービスがある!まで幅広く
募集します。”kokorononagare”twitterに書き込んでもOK!
よろしくお願いします。

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